スーパーに行く服が、実は一番見られている――50代が日常で試されている“無意識の装い”

コンビニでお茶を買うとき、ドラッグストアでシャンプーを手に取るとき、そしてスーパーで牛乳と豆腐をカゴに入れるとき──
人はそこまで見ていない。そう思っている人は多い。
でも実際には、“そこ”での装いこそが、その人の印象をゆっくりと塗り替えている。

特に50代。仕事着では見えない「その人の素」が、近所にじわじわと定着していく。
1週間に3回会う人に、3回ともヨレたパーカーとくたびれたジーンズで会えば、それが“あなた”になる。
逆に、きちんと感はなくても、「なんとなく手が入ってる」と感じさせる服を着ている人は、他人の中で“丁寧な人”として記憶される。

これは印象の問題というより、「生活に対する姿勢」が滲み出る構造の話だ。

立命館大学の行動社会学研究では、「非目的行動時の服装」は、目的的状況よりも他者の印象を左右する強度が高いと示されている(2022年 調査)。
要するに、**“気を抜いているときに見られる服装こそ、その人の信頼ベースになる”**ということだ。

スーパーに行く服が汚れていても誰も何も言わない。けれど、少しずつ「この人はだらしないかも」という印象が蓄積する。
そしてそれは、ご近所づきあいや地域のちょっとした人間関係の“ベースイメージ”として作用し続ける。

逆に、Tシャツでもニットでも、アイロンが入っている、襟が整っている、靴が磨かれている──そんな服を“無理なく”着ている50代は、むしろラフなのに信頼される。
服が派手じゃなくても、そこに**「気にしている痕跡」があるかどうか**。それが、見られていないようで見られている日常の装いに差をつける。

また、家の近所というのは“他人ではない他人”が多い。
同じ時間帯に歩く通学路の子どもたち、近隣の店員、マンションの住人──
その人たちは、あなたにとって「顔見知り未満の観察者」だ。

彼らにとってのあなたの第一印象は、スーツでもなくSNSでもなく、レジに並ぶ後ろ姿で決まっている。

それならせめて、ヨレヨレのスウェットではなく、季節感のあるスニーカーと、自分に馴染んだニットの1枚くらいは選んでいたい。
それは「オシャレかどうか」ではなく、「ちゃんとしている人」という記憶の残し方に関わる問題だからだ。

“素”が出るのはいい。だが“抜きっぱなし”になると、そのまま「その人扱い」されてしまう。
日常の装いこそが、長期的な信用をつくる下地。
50代は、そういう意味で**「最も気を抜きやすい場にこそ、最小限の軸を残しておく」**必要がある。

だからスーパーへ行くときの服が、意外に大事だ。
そこには無意識に現れる、“自分をどう扱っているか”という習慣が、そのまま映るから。